【市川真也 人生ストーリー】生い立ち〜すごいプロデュース誕生秘話

目次

私の生い立ち〜無気力な会社員時代の僕

改めまして!

市川真也です。

初めましての人もいると思うので、
まずは私のこれまでの生い立ち
そして、「すごいプロデュース」
誕生するまでの裏側までの秘話を
全てここで語りたいと思います。



私は大阪府の小さな田舎町で
当時、手取り給料11万円で9万円を
車のローンと維持費に遣ってしまう
破天荒な父親と
兵庫県芦屋市の自宅の庭に川が流れる
環境で育ち、才色兼備で愛とビジネスセンスに
満ちた母親の間に生を受け
3つ下と11歳下の弟たちと
私の4人家族で育ちました。

破天荒な父。笑



私が小さい頃は
父親は会社員をしていましたが
物心ついた頃には建設資材を製造する
会社を母と数人の身内で経営していました。



小さい頃の私は
犬や熱帯魚、カエルにイモリ、ザリガニ
生きものが大好きで1匹、1匹に
まるで友達と接するように話しかけている
周りからすると相当な変わり者だったようです。
(私自身は生き物と会話ができていたんですが・・・これは今も!)


そんな小さい頃の私の夢は
スイスに住んでセントバーナードという
救助犬の訓練士になることでした。
本気で思っていました。笑



小学生になっても生きもの好きは
変わりませんでしたが
たまたま、雑誌でみた
イタリアのFerrariという車に
衝撃を受け!
どうしても早く手に入れたい!
どうすれば買えるのか?


当時で5000万円くらいだったと
思いますが。笑


真剣に学校の廊下ですれ違う
学校中の先生に聞いてみましたが
鼻で笑われて終わったり


「そんな車は
悪いことをして
人を騙してお金を稼いだ人が
買っているんだよ」
という衝撃的な言葉を

数人の大人たちから
聞かされました。


でも、小学2年生の時に
なんとなく学校の先生の給料を知った時に
「先生の言うことを聞いていても
 僕の夢は叶わない」と確信したんです。


そこからは、母親にお願いして
なぜか、書店で「徳川家康と松下幸之助の経営本」を
買ってもらいランドセルにはこの2冊だけをいれて
卒業まで通っていました。
(当然、母親は頻繁に学校に呼び出されていました。笑)


中学校、高校は幼い頃から
続けてきたレーシングカートに
明け暮れる日々で学業はそっちのけ。




就職先は中学生の頃には
父親の同業者に就職して
後継に準備が決められていたので
目的地の見当たらない
市川青年、暗黒の時代でした。


高校卒業後は
父親の指示で
大阪市内の商社へ営業で就職。
入社、翌月に上司の売上成績を
ぶち抜いてしまい・・・
営業会議で成果を出しているのに
居場所がない苦い思い出を
今、書いていて思い出しました。笑



僕が営業が得意になった理由は
きっと、小さい頃から
生きもの1匹、1匹と
会話してきたからかなと思います。



人生、最初で最後の
3年間の会社員時代は
母親から父親の会社に戻ってきてほしい
という呼びかけで幕を閉じました。


父親の会社に再就職するも
僕の居場所はどこにもありませんでした。



父親が社長で
役員は父親のビジネスセンスのない
身内だらけ。


唯一の救いが
金庫番で会社の利益を貪る
父の身内と戦い続ける母親。


彼女の背中をみて
事業家として成功したい。
稼ぎたくても稼げない人
病気や障害、環境で強いられた
不自由を感じている人に直接
助けの手を届けられる人間になると
覚悟したころが21歳の市川でした。


ここから大事件を起こします・・・・

海外へ妻を残して逃亡

21歳の時に今の妻となる人生のキーマンに出会いました。
とにかく、明るく、弱音を吐かず、いつも笑っている人。
そんな彼女を放って、サンフランシスコへ片道チケットで渡米。



父の会社で働くことがいつしか限界に達していました。
父から逃げるように
残した母親と最愛の彼女より逃げることを選んだ最低な男。

サンフランシスコでは英語も話せず
仕事もなく、最初の2日くらいは現実逃避で観光を楽しみました。

手持ちのお金は50万円くらいだったと思います。

すぐにお金も底をつき、行き着いたのがテンダーロインという
治安があまり良くないエリアでした。

いつしか、ここで路上生活をするようになっていました。
そこでの生活から1年、メイシーズというデパートの
警備員として働くことができ翌年に帰国。

中国進出と中国共産党による不義理で一家離散

25歳の私。
仕事中もmixiに夢中だった私。笑

クソボンボン時代の市川


父との仕事はやり甲斐もなく
新しい何かを自分で始めたい欲だけが
日に日に増していました。

反して、
父の会社はすごい勢いで急成長。
国内だけでなく、中国にも進出して
上海、大連、義烏、杭州
次々に進出していき当時の年商は500億円を超えていました。


このころは
市川青年は望んでもいないのに
なんちゃって専務に昇進していて
役員報酬も跳ね上がり

毎月、クレジットカードで
200万円くらい散財。
週末はラグジュアリーホテルの
エグゼクティブフロアーで宿泊して
そのまま翌朝、会社に出勤。


まあ、田舎のちょっと成功した
バカの典型的なボンボンになっていたわけです。


父の経営方針がきらいだったのに
父に従うゴミ化していたんです。


でも、そんな生活も人間は飽きる。
やっぱり、嫌なものは嫌。
どうしても、父の経営に馴染めず
社内でこっそりネット通販事業を一人で
立ち上げたのもこの頃です。


父の会社にある
在庫管理がゆるい製品を盗んで販売。笑
すぐに月商200万円くらいになって
1年後には1000万円を超えていました。


そんな時期に起こったのが
中国共産党からの
いきなりの指令でした。


「ノウハウを現地の中国人に公開しろ」


さすがの父も反論すると
一気に手のひら返しで
54億円の負債を抱えることになりました。


いろんな手立てを尽くして
最終的には3億4000万円の借金。


でも、払うお金などない。。


「父に破産するしかないよね」と
問いかけた瞬間、「そんなことできるわけないやろ」


若き、市川青年が「じゃあ、どうするの」と
聞き返すと

「お前は若い、社長をすぐに交代するから返していけ」


父からの言葉に絶句と殺意を感じながらも
翌週には社長に就任していました。


中国共産党の怖さを身をもって経験できた
今となっては良い経験です。


31歳の市川


大きな2世帯住宅を建てて間がない頃でした。
建てる前に方位などを
診ていただいていた先生からは
この場所には家を建ててはいけない、
家族がバラバラに離散すると言われましたが
基礎だけで数千万円、すでにかけていたので続行。

不思議なことの連続で
仕事も家族も全て失って
文字通りの一文なしになった時期でした。

友達がくれたボロボロの軽トラックで
農家や工場をまわり鉄屑や非鉄金属を
集める生活が始まりました。
(ほんとうに・・・恥ずかしくて嫌だった)
いわゆる、ゴミ拾い。。
当時はそう自分を蔑んでいました。

ゴミ拾いから6年間で億万長者へ

来る日も来る日も
和歌山県や奈良県の田舎を
まわって農家や工場にお声がけして
鉄屑などをもらって買い取ってもらっていた時。

そんな時に
農家のおばちゃんが
田んぼを耕すトラクターを
処分してほしいと言われ

軽トラックに
ギリギリ積んで
(積載は3倍くらいオーバーしていたけど。笑)

スクラップで売ったら赤字。涙
それからもなぜか
農機具を引き取ってほしいと
声をかけられることが多く
その度に1日タダ働き状態でした。

心の中では
断れない自分への苛立ちと
収入が上がらない不安。

そんな時に
昔、お世話になった
サンフランシスコ時代の
ユダヤ人夫婦から言われた言葉を
思い出した。

自分に起こっている
現実を辛いと思うかラッキーと
思うか見方はイチカワの自由。

でも、嘆いているうちは
ずっと貧乏で満たされず
文句ばっかりの人生だよ。

トラクターを
他の国に輸出してたり
しないのかな?

少し前向きに考え出したら
いつもタダで引き取ってもらっていた
スクラップ屋さんから車で5〜6分のところに

今まで無料引取だった
トラクターを30〜100万円で
買ってくれるボリビア人に出会いました。

その月の収入は700万円。

6年間で1億800万円貯めた時に
スクラップ屋さんは相場ビジネスなので
世界市場にとても詳しい!

そろそろ米国の住宅ローン破綻するよ!
いわゆるリーマンショックが起こりました。

トヨタ自動車の株価が2700円台に
なった時に・・・・。。

1億800万円を全額投資。

8700円で売り切って
3億4000万円くらいの資産を
作ることができました。

三井住友ファイナンス&リース株式会社との出会い

トラクターが売れるなら
トラックや重機なども輸出しているだろう。
読みは的中して農家や農協だけではなく、
今度は建設会社や運送会社に
声をかけさせていただいて
買い取りの会社を設立しました。

買い取った重機やトラックを
ボリビア人に買い取ってもらう
十分に利益が出ていたので
よかったんですが、
次は買取に回るのが面倒になってきたんです。


不自由は絶好のビジネスチャンス!
何か良い方法はないか?
その時に思いついたのが
偶然、建設会社から買い取った
SUMITOMOブランドの重機でした。


すぐにどの会社が販売しているのか
調べてみると
三井住友ファイナンス&リース株式会社
という会社が販売とリースをおこなっていることが
わかったので大阪市内にあるその会社へ
翌日、営業に行きました。





普通に飛び込んでも
相手にされるわけがない。。
十分にそのことはわかっていたので
何を提案すれば喜ばれるか?
何に困っているか?
やりたくない仕事は何か?


考えに考え抜いたご提案内容が
「ローンやリースの支払いが
滞っているお客様のローンやリースを
私が全て立て替えます」

その代わり、立て替えた
重機や機械は私が引き取ることを
条件にとご提案したんです。


先方の返事は
2つ返事で即オッケー


早速、ローンやリースの
残債リスト、商品リスト、顧客リストをいただき
2年後には会社の年商は70億円を突破。



2023年には
この会社を売却して
大きな資産を生み出すことができました。

WEBマーケティングとの出会い

市川、38歳の時に出会ったのが
WEBマーケティングでした。
オンラインでお客様を集客できるなんて
衝撃的でした。


早速、講座に申し込みWEBマーケティングを学んだものの
なかなか、実業に生かすことができず
気がつけば2年間。


単にWEBマーケティングを使えても
売上にはもちろん、集客にも結びつかない。


そこで、
だれにどんな
価値を届けているのか



コンセプト作りを本気で学びたい


国内で2000万円くらい投資して
有名高額塾で学んだりしたけど
どれもピンとこなくて


アメリカへ渡る。



そこで出会った
コンセプターの元で
コンセプトメイキングから
商品、サービス設計
集客ファネル、広告を学べたことで


当時、実業の売上が
3倍〜20倍以上に跳ね上がりました。



事業の成功は
コンセプトだったんだと
身を持って経験したことで



コンセプトを軸に
広告と集客ファネルを構築する
講座を最初は販売したんですが




クライアントさんの性格や環境
業種の違いで同じテンプレートでは
うまくクライアントさんの成果を
出すことができない。


どうすれば、
クライアントさんたちの
事業収益を伸ばすことができるのか
考えた末に出た答えが



コンサルタントではなく
一緒に伴走しながら
事業を立て直していったり
WABマーケティングを
クライアントさんの性格や環境に
寄り添いながら事業に導入していく
プロデュースに全振りしました。



そこから生まれたのが
すごいプロデュースです。

今では1500社を超え
プロデュース契約満了後も
改めて参加いただいたり
月額サロンにも参加くださって
ご縁をつないでいただいています。

人生を大きく変えた 息子の生死

今から8年前
次男の突然の心肺停止。
生まれつき、知的障害がありましたが
全く予期せぬイベントでした。

幸い、14分間、8分間の心肺停止を
2回経験しましたが
今は就寝時以外は
人工呼吸器を外して元気に生活が
できるまでに回復しました。




ただ、身長が181cmもある
息子の介護は妻だけでは大変で
デイのお迎えまで私がオムツをかえたり
胃ろうから栄養や薬を入れたり
気切から痰を排痰したり
着替えをさせたりしながら過ごして

そこから17時まで
仕事をする生活をしています。

周りからは
「大変だね。。」と
お声がけいただくのですが(笑)

これが全く大変じゃなくて
むしろ、大好きな息子と
時間を共有できていることに
息子には感謝しかありません。


彼の将来には
もちろん、不安はありますが
今は彼や彼の仲間たちのために
医師や看護師、ヘルパーさんなどを常勤していただける
施設を作ることが目的に日々、奮闘しています。



まだまだ、書き足りませんが
こんな感じで今、みなさんとご一緒に
事業をプロデュースさせていただいている仕事が
私の天職だと思います。



クライアントさんが
収益を伸ばし続ける仕組みが
出来上がり、うまく運用できた瞬間!



言葉には言い尽くせない
最高のエクスタシーを
味わえるのです^^











 









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